2024年7月3日、日本銀行が20年ぶりに新紙幣の発行を開始しました。今回新しくなる紙幣は「一万円札」「五千円札」「千円札」の3券種であり、肖像の変更や偽造防止技術の改良が加えられています。
この記事では、「それぞれの新紙幣に描かれる人物が誰であり、何をした人なのか」といったポイントや、「誰が紙幣のデザインを決めているのか」など、新札にまつわる疑問について解説していきます。
新紙幣の肖像として、新一万円札には渋沢栄一、新五千円札には津田梅子、新千円札には北里柴三郎が描かれています。以下、それぞれの人物が何をした人物であり、どのような観点から選出されたのかを解説します。
(出典:財務省ウェブサイト)
渋沢栄一(1840~1931)は、「近代日本経済の父」と呼ばれるように、明治維新後における日本の近代化を経済面で支えた人物の一人です。大蔵省(現在の財務省)でキャリアを積んだのち、実業家として独立し、日本で最初の銀行となる第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の設立を指導しました。
銀行業において渋沢栄一が重視したのは、民間企業への融資や創業支援です。近代的な事業融資のシステムを導入することで、明治維新後の産業発展をさまざまな分野で支えたことから、「実業界の父」「日本資本主義の父」などとも呼ばれています。
渋沢栄一が創業を支援した事業は500にも上るといわれ、そのなかには現在の東京ガスの前身となるガス事業や、JR東日本に連なる鉄道業、後に東京電力となる電力会社など、経済活動の中軸を担ってきたインフラ事業も少なくありません。
(出典:国立国会図書館|近代日本人の肖像)
このように、渋沢栄一は明治維新後の国づくりに経済面から大きく貢献した人物ですが、同じく高く評価されているのが教育や社会福祉面での影響です。現在の一橋大学の前身となる「商法講習所」の運営に携わるなど、実学(実社会において活用できる知識)の習得を重んじ、そのための教育機関を積極的にサポートしていました。
経済界においては、彼の道徳観を示す言葉として「道徳経済合一」という理念も広く知られています。これは「経済人として利益を上げつつも、事業を通じて他者を利する」という公益性も重視した考え方であり、現在のCSR(企業の社会的責任)などにもつながる部分があるでしょう。
総じて、渋沢栄一が新一万円札の肖像画として選ばれた背景としては、やはり明治維新後の国家形成期に資本主義的な産業の地盤を整えた点や、企業道徳の面で後世に大きな影響を及ぼした点が挙げられるでしょう。
なお、2021年に放送された渋沢栄一を主人公とするNHK大河ドラマ『青天を衝け』においては、俳優の吉沢亮さん主演のもと、幕末から明治維新にかけての激動期を生きる姿が中心的に描かれており、とりわけ江戸幕府との関係性の変化が物語の軸にあったといえます。
大河ドラマでも描かれるように、渋沢栄一は農家に生まれ、一度は倒幕を志しながらも、後には徳川慶喜に仕え、政権返上後の新政府においても中核的な役割を担うなど、若い時分からさまざまな立場を経験した人物です。その目まぐるしい変化のなかで、多くの分野で力を発揮しつづけた人物として位置づけられるでしょう。
(出典:財務省ウェブサイト)
津田梅子(1864~1929)は、現在の津田塾大学にあたる「女子英学塾」の創設者であり、明治期以降の女子高等教育に大きな貢献を果たした人物です。
幼少期から豊富な海外経験を積んでおり、1871年にはわずか6歳で国内初の女性留学生となり、岩倉使節団に同行するかたちで渡米しています。17歳で一度帰国し英語教師などを務め、25歳で再度アメリカへと留学しました。
再留学の際には、米国のブリンマー大学において発表した生物学の論文”The Orientation of the Frog’s Egg(カエルの卵の定位について)”がイギリスの学術誌に掲載。日本人女性として海外の学術誌に掲載された事例はこれが初めてといわれており、学問の世界において目覚ましい活躍を見せました。
(出典:国立国会図書館|近代日本人の肖像)
帰国後は女性の社会的地位向上という理念のため邁進し、女性の高等教育を実現するための機関として1900年に女子英学塾を創立します。
彼女を主人公とするテレビ朝日系のスペシャルドラマ『津田梅子~お札になった留学生~』内で主演の広瀬すずさんが演じたように、一度帰国した際の津田梅子は日本国内における女性の地位の低さに大きなショックを受けたとされています。
海外の教育機関で育った彼女にとって、「女性が男性と同様に教養を修め、社会で活躍できる環境」は日本の発展に欠かせない要素として映っていたと考えられるでしょう。
女子英学塾において津田梅子が理念として示した“all-round women”は、英語のみならず教養や人格において修練され、視野の広い自立した女性を表しています。現在も喫緊の社会的課題とされる「男性と女性の協同する社会の実現」について、いち早くその必要性を見抜き、具体的な行動を起こした人物として津田梅子は位置づけられます。
このように、女性のエンパワーメントを教育の面から強く推進した点が、新五千円札の肖像に選ばれた要因の1つに数えられるでしょう。
(出典:財務省ウェブサイト)
北里柴三郎(1853~1931)は「近代日本医学の父」とも呼ばれており、明治期に破傷風やペスト菌の発見など、細菌学の分野で世界的な貢献を果たした人物です。第1回ノーベル生理学・医学賞の最終候補に残った人物としても知られています。
とりわけ傷口から菌が入り込み、感染症による死亡例も多かった破傷風の研究においては、世界初となる破傷風菌の培養にはじまり、毒素の発見や血清療法の確立と多大な業績を残しました。
その業績は日本国内はもちろん、イギリスやドイツをはじめ世界各国においても評価され、生涯のなかで多くの称号や公的機関の名誉会員としての地位を獲得しています。
(出典:国立国会図書館|近代日本人の肖像)
さらに、世界三大研究所の1つに数えられる伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創立や、結核専門病院の開設など国内における伝染病予防に寄与しながら、香港で蔓延していたペスト病の調査に現地まで赴き、ペスト菌の発見にも至っています。
その後も北里研究所や慶應義塾大学医学部の創設、日本医学会の設立などを通じ、後進の育成や社会活動にも励み、現在まで続く日本の細菌医学の礎を築いた人物として位置づけられるでしょう。
日本銀行法において、紙幣の様式は最終的に財務大臣によって決定されるものと定められています。
ただし様式を決定する過程においては、通貨に関する行政を担う財務省と、通貨の発行元となる日本銀行、および通貨の製造を担う国立印刷局の三者間での協議を通じて、肖像やその他のデザインなどを選定していきます。
財務省のホームページにて、紙幣の肖像に描かれる人物を選定する際の基準として、以下の3点が挙げられています。
このように、「精密な写真」という紙幣作成上の都合に関わる基準のほか、「品格」や「認知度」といった観点を重視したうえで、「明治以降の人物」から選定するものとされています。
ここで「明治以降」と区切られているのは、現代の日本に至る近代国家としての枠組みが形成されていったのが明治維新以降であるためだと考えられるでしょう。
そもそも紙幣に特定の人物の肖像画が用いられる理由として、日本銀行は「偽造防止」と「親近感」という2つのポイントを挙げています。
偽造防止の面では、人々が無意識のうちに「人間の顔」を見分けることに慣れており、わずかな違いに対しても敏感に察知しやすいことから、特定の人物を描いた肖像画が用いられているとのことです。
また親近感の面では、文化や経済などで日本国の発展に大きな貢献をした人物を紙幣に描くことにより、当の人物の業績や歴史についての認知を自然なかたちで促していく側面があるでしょう。
(参照:日本銀行|お金の話あれこれ(3))
(出典:国立印刷局|写真で見る製造工程)
上述のように、紙幣の様式を最終的に決定するのは財務大臣ですが、紙幣のデザインの多くを実務上担当しているのは国立印刷局の「工芸官」と呼ばれる専門職です。
工芸官は職能により「製品デザイン部門」「彫刻部門」「線画デザイン部門」「すき入れ部門」の4つに配属され、それぞれ異なる領域のデザインを担当します。
まず肖像画や偽装防止技術とのバランスを鑑みながら、全体的な構図を素描し、実際の製作における設計図を用意するのが「製品デザイン」です。さらに、その図面を凹版印刷用の原盤へと彫り込んでいくのが「彫刻」の担当となります。
加えて、専用のソフト上で紙幣の細かな幾何学模様などを印刷図面に落とし込んでいく「線画デザイン」と、偽装防止のすかし技術を担当する「すき入れ」により、微細な表現が加えられていくのです。
なお現役の工芸官は美術系の高校・大学出身者を中心に、合計30名ほどが在籍しています。もちろん工芸官の情報は機密事項にあたり、工芸官どうしでも他部門の人物についての情報は明かされていないといいます。
財務省は紙幣の偽造防止という観点から、発行する紙幣をおよそ20年のスパンで変更することを基本方針としています。年々アップデートされる造幣技術を反映する意味でも、定期的な紙幣の改刷が望ましいとされているのです。
なお2024年に新紙幣を発行するにあたり、財務省のホームページではその改刷の背景について「前回改刷が実施された2004年から20年近くが経過し、印刷技術が進歩している点」と「ユニバーサルデザインの必要性」という2つのポイントが挙げられています。
表面の肖像画以外にも、新紙幣にはデザインや技術の面で新たな要素が取り入れられています。以下では裏面のデザインや、造幣に導入されている技術について解説していきます。
各紙幣の裏面には、さまざまな分野で日本を象徴するアイコンが描かれています。新一万円札には「建造物」が、新五千円札には「自然物」が、新千円札には「芸術作品」が採用されており、多面的に日本の美を表現しています。
(出典:財務省ウェブサイト)
新一万円札の裏面に描かれるのは、「赤レンガ駅舎」として知られる東京駅の丸の内駅舎です。
経済発展の動脈となった鉄道の中心駅として、日本の近代化を支えてきた歴史的な役割や、首都のランドマークとして多くの国民にとってのアイコンとなっている点などが選出にあたって評価されたのだと推察されます。
(出典:財務省ウェブサイト)
新五千円札の裏面には「藤の花」が描かれています。新札の色彩も藤色に近い紫系のカラーであり、配色にマッチしたゆたかな「しだれ藤」が印象的です。
国立印刷局の特設サイトでは、藤の花は「古事記や万葉集にも登場」しているとの説明が見られます。日本最古の書物として日本国の成り立ちを示す『古事記』と、日本最古の和歌集である『万葉集』とに言及が見られることから、古くから国民情緒に触れてきた花として選出されたものと考えられます。
(出典:財務省ウェブサイト)
新千円札の裏面には、葛飾北斎の浮世絵『富嶽三十六景』のうち、もっとも著名な版画の1つである「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」が描かれています。荒々しい高波の間から遠方の富士山を臨む構図が印象的な作品です。
北斎の浮世絵はゴッホをはじめとする印象派への影響も指摘されるなど、世界的な評価も高い作品だといえます。2015年にはフランスの郵便切手の図面に同じく「神奈川沖浪裏」が採用されており、そのような国際的な影響力も選出の一因と考えられるでしょう。
今回の改刷においては、既存の造幣技術はもちろん、さまざまな点で新たな技術が導入されています。
たとえば偽造防止技術として以前から採用されていた「すかし」の技術は、さらに高精細化され、すかしに描かれる肖像画の周囲に複雑な線画を施すことで偽装を困難にしているのです。
(出典:国立印刷局|お札の基本情報~現在発行されているお札~)
さらに、紙幣において世界初導入となる技術として「3Dホログラム」が挙げられます。紙幣表面の端に印刷されたホログラムの肖像が、傾きによって立体的に顔の角度を変えていく技法です。
(出典:国立印刷局|お札の基本情報~現在発行されているお札~)
その他、ユニバーサルデザインの面では、目の不自由な方などが券種を識別できるよう、紙幣端に凸凹をつけた「識別マーク」をよりわかりやすい形状にしています。また外国人観光客などによる識別性を高めるため、紙面の数字もより大きな表示へと変更されました。
紙幣改刷における肖像画の選出基準には、時代によって少なからず変化が見られます。前回の2004年における改刷や、それ以前の改刷時と比べ、今回の改刷にはどのような基準の変化が見られるのか、以下で考察していきます。
前回の2004年における改刷では、一万円札の肖像画はそれ以前から踏襲し、思想家の福沢諭吉(ふくざわゆきち)を引き続き採用していました。一方、五千円札は小説家の樋口一葉(ひぐちいちよう)、千円札は細菌学者の野口英世(のぐちひでよ)へと変更されています。
(出典:国立印刷局|お札の基本情報~過去に発行されたお札~)
2004年と2024年における各紙幣の肖像画を比べると、選出基準には一定の共通点が見られるでしょう。一万円札はいずれも「明治維新後の国家形成の地盤を整えた人物」であり、五千円札は「近代日本における女性の社会進出を象徴する人物」です。さらに、千円札は「明治期に科学分野で世界的に活躍した人物」であり、明治期の社会形成に異なる分野から貢献した人物が選ばれています。
前々回の改刷は1984年に行われ、一万円札に思想家の福沢諭吉、五千円札に同じく思想家の新渡戸稲造(にとべいなぞう)、千円札に小説家の夏目漱石(なつめそうせき)が選出されていました。
(出典:国立印刷局|お札の基本情報~過去に発行されたお札~)
2004年以降の顔ぶれに比べると、思想や教育、文化の面で貢献した人物が揃っている一方で、「経済」や「科学」分野における著名な人物は選ばれていないことがわかります。また、肖像に選ばれているのがいずれも男性である点にも着目すべきかもしれません。
日本銀行の発行する紙幣の肖像に女性が選ばれたのは2004年改刷の樋口一葉が最初であり、それ以前には明治期の紙幣に神功皇后(じんぐうこうごう)が描かれていたのみでした。2004年以降は各紙幣の間で「分野」や「性別」などを偏りなく選出しようという傾向が見られ、同様の傾向は今回の2024年改刷にも共通しています。
なお1984年以前には、聖徳太子や伊藤博文、板垣退助など建国に関わる人物が多く見られ、1984年以降の「明治期以降に活躍した人物」という枠組みに該当しない人物も見られます。1984年の前後でも、選出基準が少なからず変化していることが窺えるでしょう。
2024年7月3日から、新しい紙幣(日本銀行券)が発行され、一万円札は福沢諭吉から渋沢栄一に、五千円札は樋口一葉から津田梅子に、千円札は野口英世から北里柴三郎に肖像が変更されました。
新たな紙幣を発行する措置は、主に「紙幣の偽造防止」という観点からなされます。今回の改刷も前回から約20年が経過していることを受けての措置であり、その間に発展した偽造防止技術が多く取り入れられているのです。
改刷にあたり、紙幣の肖像やデザインなど様式を最終的に決定するのは財務大臣ですが、その詳細については財務省と日本銀行、および国立印刷局の三者間協議のもと決められていきます。デザインを担当するのは「工芸官」と呼ばれる国立印刷局の専門職です。
紙幣に掲載される人物は、その業績や認知度などを考慮したうえで、明治期以降の人物から選出されます。2004年以降は「近代国家の形成」という観点から、国づくりやジェンダー平等、科学の発展といった面で大きな貢献を果たした人物が選出される傾向にあり、今回も同様の傾向が指摘できるでしょう。
現在では電子マネーの普及により、紙幣を日常的に使っていない人も増えていると考えられます。一方で、紙幣はやはり「経済活動の基盤」であり、そのデザインや肖像は国民にとって象徴的な意味を担います。新札が普及するとともに、私たちのお金に対する価値観はどのように変化していくのか、今後も注目していきたいところです。