東京生まれ、渋谷ラバー。2011年小説『空のつくりかた』刊行。その後アパレル企業のコピーライティングをしたり、webメディアを立ち上げたり。最近の悩みは、趣味が多すぎてなにも極められないこと。でもそんな自分が好きです。
2023年、note上で公開されていた「パパと私」というエッセイが糸井重里さんやジェーン・スーさんらの目に留まり、大きな注目を集めたことで、今や時の人となった文筆家の伊藤亜和さん。
今年2024年6月には初の著作『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)を、そして11月には早くも2作目となる『アワヨンベは大丈夫』(晶文社)を上梓したばかりの、多忙を極める彼女にお話をうかがう機会を得ることができました。
戦う姿勢を見せるけれども、時に脆さも感じてしまうような繊細な描写、そしてあっけらかんと家族や恋人など自身の身のまわりのことを語ってくれる大胆な身ごなし。
小気味いいほど鮮やかに言葉を紡いでくれるその表現力は、いうまでもなく、バズったことが偶然やまぐれなどではないと物語っています。
多くの方がいま一番気になるだろう彼女の声を少しでも直接聞いてみたくてインタビューをさせていただいたら、思わぬ方向に話題は流れ、最後には予期せぬ言葉に心を鷲掴みにされました。そんな筆者のパーソナルな部分も、伊藤さんのマインドに乗っかって、むきだしのままお伝えしたいと思います。
文章を書きはじめたきっかけについてお伺いできますか?
よく「noteが最初」ってお答えしているんですけど、もっと前に遡って本当の本当に「書く」という習慣を作った原点となると、たぶんTwitter(現X)ですね。
中学生くらいのときに流行ってみんなやっていたんですが、そのうち飽きて辞めていく人が増えていくなかで、私だけ異様な執念を見せはじめたっていう……(笑)。
140字という制限のなかで、言葉を書いて削って、簡潔にまとめて、そのうえでいかに人に面白がってもらえるかというところに力を注いでいたんですよね。
学校でも「Twitter面白くて見てるよ」「ファンです」って声をかけてくれる子がいたりして、全然友だちにはなってくれなかったんですけど(笑)。それでやりがいを感じて、その延長線上としてnoteを始めました。
Twitterを始める前にもアウトプットする場はありましたか?
なかったですね。文章といえば、学校の課題のレポートを何千字書く、といったくらいのものをこなす程度でした。
今は長文を書かれていますが、140字という枠から現在のかたちに落ち着くまでギャップはありましたか?
「創作大賞2023」でメディアワークス文庫賞をいただいた「パパと私」も文字数自体は短めなので、ちょっとがんばってツイートを何回かしたくらいの感覚だったんです。
でも今、お仕事で一篇に何千字という文字数を求められることもあって、正直めっちゃ辛いです(笑)。
それまでTwitterでわかりやすく短くまとめる訓練をしてきちゃったから、「これ以上どう手を加える?」っていうふうになっちゃうことも多くて……。そのときはその塊から一個ずつほぐしていって、いろいろ付け足して、ようやく4,000〜5,000字にしているという感じですね。
伊藤さんにとって、自身の言葉を紡いで世に出すという行為は、生みの苦しみを感じるか、自分のなかにあるものを発散できて楽になるか、どちらの気持ちが強いですか?
以前はなにかを書かないとムズムズするから書きたいと思ったタイミングで吐き出す、というのが私にとっての「書くこと」だったんですけど、仕事になってからはやっぱり生みの苦しみがありますね。
わかりやすく面白い出来事があったときはスルスル書けちゃうんですけど、そうではなくて、自分がこのときなにを考えていたのか、どういう自分がどういう思想を持っているからこういう行動をしたのか、そういう話を書くときはだいぶ苦しみますね(笑)。
自分が今なにを考えているかなんて普段は意識していないし、結構なにも考えていないときもあるので……。
「日々の生活のちょっとした風景をつぶさに見ているんですね」といった感想をいただくこともあるんですけど、全然見ていないです(笑)。
描写が細かくて、読んでいると情景を思い浮かべられる文章だというのは私も感じていたので、少し驚きました。エッセイの中でも「エッセイを書くことは記憶との戦い」と書かれていましたが、メモなどを取って記憶されているんですか?
そうやって褒めていただくこともあるんですけど、そもそもほかの方の文章を読まないから自分の文章が細かいかどうか比較ができないんですよね。自分では細かいと思ったことはなくて、記憶のとおりに羅列しているという感覚で書いています。
人のテクストを多く読んだ機会といえば大学のときだったと思うんですけど、専攻が仏文科で、フランスの小難しい、もしかしたら神経質とも捉えられるような文章によく触れていたんです。だからそれが反映されているんだと思います。
でも人に細かいと言われてから初めて「細かくしなきゃ」と意識するようになって、最近は時々メモを取るようになりました。ネタが尽きてきたこともあって……(笑)。
たくさん連載をお持ちなので、お察しします……。
いろんな人に会う機会が増えて、いろんな場所に行く機会も増えて、一つひとつの印象が薄くなった気もします。大人になったら経験も増えるから目新しいこともなくなって、その分心も動かなくなって記憶にも残りにくくなるって聞きますが、本当にそうなってきましたね。
「こんないいことを思いついたら絶対に忘れないだろう」って思っても忘れているんですよ。「なんでメモしておかなかったんだろう。すごくいいことを思いついた気がするのに忘れちゃったよ」って。
だから全部覚えていたら、今ごろもっとすごい賞を獲れていたのではないかと思ったりします(笑)。
人の記憶って儚いですよね。そのときは強い印象を抱いていても、あっという間に忘れることも多い気がします。
私の場合はもともと忘れっぽいので、「なんで怒っていたんだっけ?」と思うことも多いです。だから元彼のこともあっけらかんと書けたりするんでしょうね。
ご自身について文章を書く方って、プライベートを切り売りするという選択をされる方も少なくないかなと思うんですが、伊藤さんの文章は家族や恋人、友人について赤裸々に語られているようで、秩序とバランスを保っている印象があります。意識されているのでしょうか?
とくに意識はしていないんですけど、「客観的」とも「赤裸々」ともよく言われますね。「こんなに書いていいんですか?」って聞かれることもありますが、そんなにプライベートな部分を出しているつもりもないんですよ。
「だってもう終わったことだし」って思います。終わってしまったら、はずかしいという感情も全然ないんですよね。
最近大河ドラマを見ていたら藤式部(紫式部)が似たことを言っていて、「そうそう!」って頷きました(笑)。この身に起きた出来事も、過ぎてしまえば他人事ですよね。
まさか現代を生きる伊藤さんが紫式部に共感するとは思いませんでしたが、たしかにそういう心持ちでいないとたぶん自分のことって書けないですよね。
今と地続きだとちょっと書けないですよね。自分がこのときどう思っていたか、たとえば多少小狡いことを考えてたな、ということもちゃんと認めないと書けないと思います。
「あのとき私間違っていなかったよね!」っていう気持ちだと、エッセイを書くのは難しいんじゃないかな。「あのときはずかしかったです」って認める、そうしたら今は反省できたという確信を持って俯瞰して書けるようになると思います。
ちなみにものすごくいろんなところで聞かれていると思いますが、「パパと私」というnoteがあの日急速にバズって、当時どのように感じましたか?
正直「こんな奇跡ってあるのね!」とか「私がこんなに注目されるなんて信じられない!夢みたい!」といった気持ちではなかったですね。
「あーよかったー」っていう安堵のほうが大きかったです。フリーターだったし、自分でもなにをしたいのか見えていなかったし、気まぐれに書いていた日記のようなものを見つけられて「あなたはこれをやってください」って世間から言われた気がして、安心しました。
そこでようやく「私はこれが得意なんだ」って気づけて、「私はこれをやるべきなんだ」「これなら人の役に立てるんだ」って思えたんです。
もしかしたら最初はご自身のために書いていたんじゃないかなと推測するんですが、そうだとしたら、そこから人のために書くようになって大変なことも多かったのではないでしょうか?
実は自分のために文章を書いたことはないんですよ。常に人に読んでもらうことを前提に書いていたので、「これで自分の気持ちに整理がつく」というよりも、あくまで読み物として人に楽しんでもらいたかったです。
っていうのは、やっぱりTwitter育ちなので、昔から「いいね」とかリプライとか、そういう反応を重要視しているんですよね。それは仕事で文章を書くようになってもとくに変わらないですね。
そうだったんですね。ということは書くスタイルも変わらないし、本当にエッセイで書かれているとおり、バズってからも以前と変わらない生活なんだなとお見受けします。
変わらないですね。ずっとだらだらして、ちょっとがんばってお手伝いして、ごはん食べて、寝て……という生活です。
でも最近引っ越されましたね。ご家族のもとを離れてみて心境に変化などはありますか?
「置いてきちゃった」っていう気持ちはありますね。おばあちゃんは露骨に寂しがっています。すごく優しくなったので、その優しさを家を出る前から出してくれたらよかったのにって思います(笑)。
なかなか毎日一緒にいると、照れもあるし、同じ熱量で優しさを向けつづけるのは難しいですよね。まさしくその引っ越すにいたった経緯も描かれている2冊目の著作『アワヨンベは大丈夫』が先日上梓されたばかりですが、こんなにもハイスピードに刊行が続いてプレッシャーなどは感じますか?
1冊目のときよりは感じています。やっぱり比較対象があると比べられるだろうと思いますし……でも今作は連載をもとにしていて書き下ろしが少ないので、そこまで「書いたー!」「出したー!」という気持ちもなくて、なのであまり感じていないですね。
というよりも、まだプレッシャーを感じられるような立場じゃないと思っています。
スランプなどもないですか?
スランプだと思ったことはないですけど、少し前の自分が書いた文章を読んで「こいつおもしろ!」「今こんなの全然書けない。もう終わりだわ」って思うことならあります。
でもその「終わりだわ」って思う自分が書いた文章をさらにまた最近の私が読んで「こいつおもしろ!」って思うんです(笑)。毎日「あーもうだめだ」って思いながら、あとで読み返したらなんとかなっているっていう繰り返し。過去の自分がずっとうらやましいです。
登場人物が自分ひとりっていうのはすごく平穏な世界でいいですね。
平和ですね、昔の自分を自画自賛して(笑)。他人のことは全然気にならないです。
エッセイの中で「結論づけるのが苦手」って書かれていたかと思うんですが、お仕事として文章を書くとどうしても結論づけなきゃいけない場面も増えてきてしまったのではないかなと感じます。最近はどのように向き合っていますか?
なにかしら答えというか着地点は作らなければいけない、というふうに思うようにはなりましたね。でもやっぱり「これが世の真理!」といったことはあまり書きたくないなと思っています。
結論を出すにしても、あくまで私個人の考えで、私が今の状況から見た結果だと思って書くようにはしています。難しいです。
私の想像がつかないような状況にいる人もいるし、常に「いろんな人がいる」って思ってしまうので……。この言葉は習いに行っている三味線の先生の口癖なんですけど。
昔からそれを聞いていて、見たことのないタイプの人と出会っても「変な人」とか「嫌い」と感じるような意識が育たなかったので、自分でもいろんな人がいるなって思いますね。
なにかあっても、「私と合わないだけ」というか。それを一言でまとめるのが「いろんな人がいるね」っていう言葉なんです。いろんな含みを持たせられるので便利だなって思っています(笑)。
三味線のほかにもPodcastをされたり、それからバニーガールとして働かれていたり、いろんなことに活動的だなと感じます。書く量は増えているのに生活スタイルを変えないというのは大変ではないですか?
私、環境で態度を変えるタイプなんです。文筆業だけの暮らしになると、たぶんみんなが「すごいですね」って言ってちやほやしてくれるのを調子に乗って受け取ってしまうんじゃないかと思います。
そうなると、ちょっと遅刻してもだれも怒らないとか、本当にどんどん良くない状況に陥ってしまうというのを自分でわかっているので、強制的に少し負荷がかかる環境を残したいという気持ちがあるんです。
バイトで怒られたり、すごく集中して三味線を弾かないといけなかったり、理不尽ななにかを浴びせられたり。
なるほど。以前別の媒体で、バニーガールとして働くことについて「バニーのときにしかいない私がいる」っておっしゃっていたのを拝見したので、いち読者としては、そういう環境はずっと持っていてほしいなぁと感じていました。
お客さんにも「辞めちゃったと思った」って言われることがあるんですけど、ずっといます。「辞めろって言われても辞めな〜い!」って言っています(笑)。
どうなんですかね?みんなに聞いてみないとわからないですけど、私が素だと思うんじゃないですかね。だからいろんな面を見せやすいんだと思います。あと「どんな人も受け入れる」というより、「あの人は変な人だ」と感じても、トラブルが好きなので自分から巻き込まれに行っている自覚はあります(笑)。
たしかにエッセイを読んでいても自ら向かっていって楽しんでいるのは感じます。文章を書く前からの感覚ですか?
もともとの気質がそうみたいです。話しかけちゃいけない人に話しかけてみるとか、変な人に声をかけられて応じてみるとか。たぶんそうやって普段の自分から一歩超えたときにちょっとした快感を覚えるんじゃないですかね。「どうなっちゃうんだ〜」みたいな(笑)。
その精神、人生の幅が広がりそうでとても素敵です。私は小心者なので警戒心を抱いたらすぐ逃げちゃいます。
みんなと仲良くなりたいんですよ。だからわかり合える箇所を探すために接しているし、接したいと思っています。「もしかしたら話が通じるかもしれない」と思いながら話しかけているんです。でももちろん危険も伴うので、この記事を読んでくださる方は真似しないでください……。
そういう出会い方で実際に仲良くなった方もいますか?
深い仲になった人はいないですけど、その場で2時間話しこむというのはありますね。「そうなんですねー」って身の上話をずーっと聞いていたり。たまにそういうイベントが発生します(笑)。
わからないですけど、たぶんギャグ漫画が好きだからじゃないですかね?初対面でもぞんざいに扱ってほしいと思っているんです。
「突拍子もない展開」みたいなことですかね。でもなかなか初対面でぞんざいに扱う方っていなさそうです。
いないですね。でもたまに通りすがりに赤の他人から「お前!」って怒鳴られたりして、そうなると「なになに?」って近づいていっちゃいます(笑)。表現が適切ではないですけど、サファリパークに行ってライオンを見つけたときに似ています(笑)。
わくわくしちゃうんですね(笑)。
あんまり他人の言葉に傷つくこともないですか?
なにかひどいことを言われても、それが自分のなかで真実でなければ全然傷つかないですね。「変なことを言うね〜」って感じです(笑)。
予期せぬ言葉を受けたときの思考として最適解な気がします。でも自分がどういう人なのかしっかり認識できていないと、なかなかそう思えないと思うので、伊藤さんはきっと常にご自身のことを振り返って向き合っているんでしょうね。
たしかにそれはあると思います。やっぱりずっと周りから浮く存在だったので、小さいころから自分の今の立ち居振る舞いが他人からどう見えているのか、すごく考えながら過ごしていました。
ある意味、自分のことを蔑みきったというか……(笑)。自分の悪いところは全部わかったつもりでいるので、そこを下回って罵倒してくる人はあまりいないんですよね。
逆に私自身は無神経だから、他人に対して平気で強い言葉を使っちゃうこともあるんですけど。それを唯一耐えられる存在が「山口」ですね。
山口さん:伊藤さんのエッセイにたびたび登場する友人。ふたりの関係性も独特で、読んでいると身近に感じられて楽しいです。 |
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そういう存在はひとりいれば充分ですよね。でも小さいころからそんなふうにご自身のことが見えていたというのは、かなり達観した子どもでしたね。
やっぱり肌の色が違うっていうのはすぐ気づくものなので……。でもハーフなんていっぱいいますからね。結局、私自身が自意識過剰だっただけっていうことなんだと思います。気にしない子は気にしないだろうし。
でもこういうもの(エッセイ)が書けたっていうのは、昔からどこかで「自分は特別な存在でいなければならない」という意識がものすごく強かったってことなんだろうと思います。
この前、飲み会のなかでおじさんに「今どき別にハーフなんて全然マイノリティじゃない。だから気にしないでいいよ」って言われたんです。それって、自分が世間になじんでいるってことだから、うれしい言葉なはずじゃないですか。
でもうれしい反面、「じゃあ私は特別じゃないってこと?」ってちょっと感じました(笑)。私が今まで苦労してきたことって、そんな瑣末なことだったのか、と。
でも、おじさんの言う言葉も正しいと思います。気にしつづけていると、ずっとそこに囚われてしまって、なにかあったときに「やっぱり私はこうだから」って全部をそのせいにしたくなっちゃうから。
なるほど、でも時にだれにでも逃げ場って必要じゃないですか?
そうですね、格好の逃げ場なんですけど。おじさんの言うとおり私のレア度なんてたいしたことないし、もっと大変ななにかを抱えている人もいるから全然えらそうなことは言えないんですけど、でも少なくとも私のなかでは「私はやっぱりこうだからダメなんだ」と思っても、言い訳として人には言わないというプライドがあります。
なにかあっても「私はこうだからできません」っていうことは、言わないほうがかっこいいかなって思っているんです。やっぱり「ひとり背中で泣く」っていうほうがかっこいいじゃないですか。あまり人に弱みを見せたくないんですよね。
かっこいいですね、めちゃくちゃわかります。なにかを決断するときに、かっこいいかどうかで選択しますか?
めちゃくちゃします。第一条件ですね。形から入るタイプです。
「かっこいい」ほうを選びつづけていれば、ずっとかっこいい姿でいられますもんね。
背筋も伸びますよね。
最後に、クリエイターを志す方々へメッセージをお願いできますか?
私自身なろうと思ってなったわけではないから、全然えらそうなことは言えないんですけど、私の場合はとにかくいろんなところに行ってきたっていうのが、ここで効いてきたなって思います。
いろんな人に会ってきたし、いろんなところで働いてみたし、そう、いろんなことをしてきたんですよね。夜中に新宿を徘徊してみたり(笑)。
そういう経験を積んだ結果として文章を書けていると思うので、とにかくSNS上で答えを探したり、「こういう人はこうだ」と決めつけたり、頭でっかちにならないことが大事なんじゃないかと思います。
最近よくネット上で「不快」という言葉を見かけるんですけど、世間一般としてこの行為は不快と認識されているから不快なんだって決めつけるんじゃなくて、まず自分がされて本当に不快に思うかどうか、情報を得るより先に噛み砕いて考えてみてほしいですね。
文章を書くために必要なのは、その人にしか書けない経験を得ることかなって思います。なので、世間一般の答えを自分のなかの答えだと決めつけないことが大事なんじゃないかな。
たしかに「不快です」って、よくネット上で見かけるフレーズですね。
自分の「不快」にすごく価値があると思っている人がいるんですよ。「あなたが不快だからなんなの?」って思っちゃいますけど(笑)。ほかにも「残念です」とか「がっかりしました」っていう言葉もよく見かけますね。
ある意味で、自分を大事にしすぎないことも大事だと思います。「今のままのあなたでいいんだよ」とか「あなたはなにもしなくていい」といった優しい言葉を求める人もいるのかもしれないけど、私はもう「戦え」「自分の場所を勝ち取れ」と思うタイプですね。
そのほうが「かっこいい」ですもんね。人間だれしもかっこよくありたいし、あってほしいと思います。
戦ってほしいですね。そのうえでいろんな人と仲良くなりたいです。
「傷つきました」という言葉を見かけると、個人的には毎回神妙に噛み締めていたんですが、たしかに「あなたが傷ついたとして、それがなんなの?」という精神はある程度持っておいたほうがいいなと思いました。
そうですよね。「傷ついた」、「つらい」、それで終わりにするんじゃなくて、私は「そこからどうするか」、「どう生きるか」を考えたいんです。「もう全部終わりだ」と諦めるのではなくて、そこからどう這い上がっていくのか。
「そっかー」でいいし、その人自身もその自分の気持ちを使えないものだと思って投げてきていますよね。「これはもう使う価値のない、ただいらない感情なんだ」って思っちゃっている気がします。
でも本来「傷ついた」ってことは、自分の過去やなにかが刺激されたってことじゃないですか。それなら、なぜそれを武器にしないの?って思います。
その武器でできることがいっぱいあるのに、なぜ「傷つきました」ってDMを送るだけで終わりにするの?って私は思っちゃいますね。傷つくっていうのはすごく大事な感情なんだから、それを押さえこむのは楽しくないんじゃない?って。
まさしくそれをやってこられた方が言うと説得力が違います……。この部分、絶対に記事に載せたいと思います!
東京生まれ、渋谷ラバー。2011年小説『空のつくりかた』刊行。その後アパレル企業のコピーライティングをしたり、webメディアを立ち上げたり。最近の悩みは、趣味が多すぎてなにも極められないこと。でもそんな自分が好きです。