IPにまつわる知識・ニュースを随時発信しています。
フィリピンでは知らない人がほとんどいないくらい有名なFumiya。最近、日本のメディアにも出演して話題になっています。3回に渡って、Fumiyaのインタビューをお届けします。第1回目はフィリピンに渡航するまでのこと、そして彼の素顔がわかる質問が中心です。
なぜフィリピンに行ったんですか?
僕は、「高校を卒業してホテルの専門学校に行って、日本一のホテルで働き、人脈を作って社長になりたい」っていう目標がありました。というのも、実家がスーパーを経営していたんのですが、実家のスーパーが無くなってしまい、社長だった父親が無職になりました。それが僕の人生のターニングポイントです。僕は、ずっと父親を見てきて、「いつか父親のように社長になりたい」と思っていました。無職になった父親に大丈夫?と声をかけた時、「人脈があるから、人生なんとでもなる」と言っていて。人脈があったら社長になれるんだって思ったんです。
どうやって人脈が作れるかと考えた時に、接客業であったら沢山の方達と出会える機会があるのではないかと考えました。父親が浜松のスーパー、つまり接客業だったので、父親を超える人脈作るために、東京で挑戦し、接客業の最高峰はホテルだと思い、ホテルに入りお客様と沢山お話をして人脈を作って行こうと決めました。
でも、都内の有名ホテルへの就職の難易度の高さは調べていて感じていたので、祖母に支援してもらいながら専門学校行かせてもらうことになり、18才で上京しました。学校の先生に「僕は日本一のホテルに入って、日本一の人脈を作って社長になりたいです!」と伝えました。「日本一のホテルは、どこですか?」って聞いたら、「帝国ホテルだ」って言われたので、「じゃあそこだけ受けますっ!」って、1社だけ受けました。
1社だけしか受けなかったんですか?
そうなんです。帝国ホテルの入社試験で「あなたの長所と短所を教えてください」って言われたんですけど、「僕の長所は運が良いことです。運が良いので、帝国ホテルで働く未来が見えます」と言ったら、面接官の方が爆笑してくださり、希望通りベルマンという部署で入社しました。
僕は、20歳の時から働き始めました。ベルマンは、お客様と一番接する仕事です。同期は8人いたのですが、その中でも一番仕事ができず迷惑をかけてしまうこともありました。仕事は一切できなかったんですよ。言われたことが本当にできないタイプの人間でして、それは昔からそうでした。なので、目標に向かって僕なりにできることをしました。
帝国ホテルにはさまざまな企業の経営者の方がいらっしゃいます。その方達を部屋までご案内する際、自分の将来の夢に対してのアドバイスをよく聞いていました。その際いろんな社長さんが「新入社員なのに面白いね」と言ってくださり可愛がってくれました。
1年くらいしたときに僕が海外に行こうって思ったきっかけがありました。それが、京都でエステサロンを営んでいる女性の社長さん。部屋の中で「僕、社長になりたいんですけど」と言ったら、「社長なんて誰にでもなれる。本当に大切なのは、何をするか。2千何年、何月何日何時何分、ニューヨークだったら、どこの何階のビルで何人の社員を抱えて、どんなプロジェクトをやっていて、そのときに砂糖の入っていないコーヒーを飲んでいるみたいな具体的なことを考えなさい。5年後にそうなりたいなら、3年後どうするの?1年後なにするの?あなたが今なにをすればいいかわかるでしょ」って。
21歳の時にそのお話を聞き、「カッコいい!」と素直に思いました。「どんな未来を描いているんですか?」ってその社長さんに聞いたんです。すると、「私は2020年、日本を出てドバイに行くの。エステサロンを世界に持っていくの。2020年は世界よ!」って僕に教えてくれたんです。そのとき2017年。「僕も2020年、世界に出るので、世界で会いましょう」って握手したんですよ。
その社長さんと約束をしたのが2017年だったので、あと3年で世界にどうやって出ようかって考えていました。ロビーに戻ったら、富士山とか日本一とか日本語が書かれたTシャツを着た海外からの観光客が沢山いました。海外の方が日本語のTシャツを着ていることに興味が湧き「なんでこれを着ているんですか?」って聞いたら、「日本語の形はかっこいいから」と。「これ、意味わかるんですか?」って聞いたら「意味はわからない」って言ったんですよ。そのときに、意味のある日本語を入れてあげたら、もっとカッコいいじゃん!と単純に思ったんです。
意味のある日本語を入れたファッションブランドを3年後に作ろう。それで世界に立とうって決めたんですよ、あと3年で。あの社長さんも逆算しなさいと言っていたので、1年目に英語の勉強、2年目にファッションの勉強、3年目に起業して世界を取ろうって、無茶苦茶な逆算をして(笑)。逆算していたら、もうホテルを辞めなきゃ!って、その日に会社が終わってすぐ留学エージェントに走りました。
エージェントに留学したい旨を伝えたら、「フィリピンのセブ島が人気ですよ。安いし、日本人も多いので安心です」って言われたのですが、日本人が多いところに行っても意味がないなって思ったんですよ。このままの自分だと絶対に不可能な3年間という短い期間での目標を立てたので、他の人がやらない挑戦をしようと思い、セブ島は違うな、ここに行くのはやめようと思ったんです。
ただ、フィリピンは物価が安いって聞いていたので、逆に日本人が行かないところってどこなんだろうって思って調べたら、首都がマニラと出てきました。マニラを調べたら、日本人殺害ってニュースが出てきたんですよ。それを見たときにこんなニュースがいっぱい出ているところに行きたいと思う日本人は多分いないだろう、逆にチャンスだと思って。
みんな普通、留学エージェントを使うじゃないですか。でも、使わないようにしようと決めました。次の日会社に行って、フロント係にフィリピン出身の女の子がいたのですが、「すみません。僕、マニラに行きたいです」と言ったら、「えー!マニラ、危ないからやめなよ!」って返されたんですが、知り合いのおじさんを紹介してくれました。ただの赤の他人のおじさん(笑)。Facebookを聞いたので、「家に泊めてください」ってメッセージを送ったんです。そうしたら、OKって返ってきたので「よし!決まった!」と。すぐに支配人に会社辞めますと報告し、理由を聞かれたので「僕、2020年に世界を獲るんです!」って、今考えるとかなり大胆な辞め方をしました。
その時21才でした。その後、パスポートと荷物を持って、そのままフィリピンへ。家も学校も決めないまま、紹介されたマニラのおじさんに会いに行きました。
YouTubeを始めたきっかけは?
マニラに行ったときに、母親があまりにも心配していたので、母親を安心させるために日々の様子を動画にし、YouTubeにアップロードしたんです。フミヤが生きているか、元気にやっているかは、その動画を見てね、と言って。空港に着きましたー!おじさんに会えました!なんて動画をあげていたんです。
YouTubeでバズりましたよね?
バロット(ふ化直前のアヒルの卵を加熱したフィリピンの食べ物)にチャレンジした動画ですね。フィリピンに着いて1ヶ月くらいしたときに、無断転載された動画が急にFacebookでバズったんですよ。そのときは1,000万回再生されたんです。当時、TikTokもなかったんで、フィリピンでも日本でも、そんな数字は見たことがありませんでした。日本人がフィリピンの文化に体当たりするのが面白かったんだと思います。
当時は、フィリピンでこんなに尖っている日本人はいなかったし、YouTube業界もまだまだ成長過程でした。僕は先進国から来た未来人みたいな感じに捉えられたのかと(笑)。フィリピンでこのままYouTubeを頑張っていたら、絶対にチャンスがあると思ったんです。英語ができてバリバリ仕事をこなす日本人はたくさんいましたが、フィリピンで有名な日本人は一人もいませんでした。だから、そうなれたら夢は叶うって思って。そこから、僕はYouTubeに本気でコミットし始めました。
英語学校に通っていたんですけど、YouTubeに賭けようと思った次の日には先生に「Today is my final day.」などと言って、学校を辞めました。それから毎日動画撮るようになって、YouTubeで有名になって2020年までに影響力をつけたら、ブランドを作ろうと思ってやり続けていました。結局5ヶ月くらい経ったときに、お金がなくなって日本に帰ってきたんです。
お金がなくなって日本に帰ってきたあとはどうしたんですか?
僕、当時結構尖っていたんですよね。絶対成功するからと言ってフィリピンに行ったのに、お金なくて帰ってきたのがめっちゃ恥ずかしくて…。僕、隠れていたんですよ、埼玉に。埼玉は家賃が安かったので。家賃5万円でボロボロの家だったんですけど、当時YouTubeの月収益が7万円しかなくて…。でも、僕はYouTubeでの自分の未来を信じようって決めていたので、アルバイトをして稼ぐ時間に意味はないと思っていました。
バイトでお金を稼いでご飯を食べるくらいだったら、YouTubeにコミットして食べられなくなる方がマシだと思っていました。毎日、動画を10時間くらい編集してアップロードして、次の日400円入るみたいな生活でした。電気が止まったり、ガスが止まったり、髪の毛も切れないのでボサボサになったりして、1日1食、パスタに塩だけかけて食べるみたいな生活をずっと続けていました。親から仕送り送ろうかと言われても、「YouTubeで儲かっているから大丈夫」っていつも嘘ついて。震えるような日々を過ごしていました。
当時YouTubeのフォロワーが3万人くらい、Instagramのフォロワーが3万人くらいいて、インサイトっていうフォロワーの分析を見たとき、セブ島にフォロワーがいるっていうのを知りました。それを見たときに直感で、セブ島でイベントをやりたいって思い始めたんですよ。
イベントやりたいって思っても、お金がない。生きるお金がない人がイベントなんてできるわけがないじゃないですか。でも、父親から「やりたいことや夢は口に出して話しなさい」と言われていたので、素直にそれを信じて語ろうと思って。次の日、道行く人に「すいません!僕、セブ島でイベントやりたいんですよ」と、声をかけて回りました。いろんな人に声をかけていたら「君、そんなにセブ島でイベントがやりたいんだったら、フィリピンフェスが日比谷公園であるから行ってごらん」って言われたんですよ。とりあえずフィリピンフェスに行ってみて、「セブ島でイベントやりたいです!」と、自分の想いを伝え続けました。
すると、セブパシフィック航空っていうフィリピンの航空会社の偉い人が、「君は誰なんだ?」と聞いてきたので、「フェイマス・ジャパニーズ!」と大きく出ました(笑)。「なにがしたいんだ。君は?」って聞かれて「セブ島でイベント!」って言ったら、「人は来るのか?」って言われたんで、「Many people come!」と答えました。それを信じてくれて、僕にホテルと飛行機代、それにショッピングモールのホールを貸してくれたんですよ。「いつ行きたい?」って言われたんで、「Next week!」って言って。
埼玉の震え上がるほど寒い部屋に帰って、SNSで「Next week big event CEBU. Please come」とアップしました。
次の週、1人で荷物を持ってセブ島に行きました。すると、向こうのスタッフが「え!お前そんな有名なのに1人なの?」みたいな(笑)。「明日大丈夫なの?なにやるんだ?」って言われて、「そういうのなにも決めてなかった、まずい..」って思ったんですけど、「とりあえず明日早く行きます」ってごまかしました。
次の日の朝早く行って、自分で椅子を100個ぐらい並べて、壁にペンでFumiyaと書いたあとは、裏で隠れて、Instagram のストーリーズで「ここにいるから来てくれ!Please!Please!」みたいな(笑)。すると、時間になってステージ出たら200人くらいいたんです。それで「すげー!こんなにいるんだ」と素直に驚きました。
でも、そこでなにをやるかは決めていませんでした。突如思いついたのが、セブ島に住む方々はビサヤ語をしゃべるんですけど、「おはようってビサヤ語でなんていうの?」と言ってマイクを渡すと、観客が教えてくれるんですよ。僕がそれをリピートすると、発音が変みたいで、みんなが笑ってくれる。それを2時間やるっていうイベントになったんです。終わったときは、「日本人でこんなことやったヤツは初めてだ。自己満足のイベントだったんだ。よし!最高だった。これで帰ろう」と心の中で思いました。
でもここで予想していなかったことが起きました。イベントが終わってInstagramを開いたら、『ピノイビッグブラザー』からメッセージが来ていたんです。
第2回へ続く。
IPにまつわる知識・ニュースを随時発信しています。